誰かのために動ける
つまり、”自分ではない誰かが自分の行動に促す原動力となる人”というのは
限りなる自己重要感がない人だと僕は考える。
僕に限らず誰しも1度は経験があると思うのだが、
自分ではない誰かのために行動をした、もしくはしようとしたことがないだろうか。
もしそれが短期的に完結するものであれば、成し遂げることができる人は多いだろう。
だが問題なのは、それがある程度時間を用してしまう場合の時だ。
一時は感情や臨場感が1番高まっている時だから、ある程度は行動できるだろう。
しかし、自己重要感が高い人間というのはその感情が時間が経つに連れて急速薄まっていってしまう。
ようは感情によって生まれた考えはその人の本質に勝つことはできないということだ。
少なくともぼくはビジネスと通して、自分の本質というものを限りなく知ることができた気がする。
人はその人の本質(価値観)によって行動を左右される。
そもそもぼくを動かした感情は、怒りや悔しさが大半を占めていたと思う。
1番印象に残っているのは24の時に付き合っていた彼女の言葉だ。
『元カノがあんたに覚めた理由がわかる気がする』
この言葉を言われ、僕は瞬間的に今までに経験したことがないほどの屈辱的な感情が沸き上がり、激しく激昂した。
しかし、場を荒らしたくない思いだけで、その場は言葉を噛み殺した。
そして同時に、誰に当てたらいいのか分からない葛藤に似た憤りを感じた。
この時の心境としてはおそらく怒りという言葉が1番近かっただろう。
だがここで同時に1つの疑問が生じた。
果たして、この気持ちは目の前の彼女に対するものか?と。
その場はそう思い込むことしかできなかったのだが、
後々になって冷静に考えてみると、それが大好きな彼女への気持ちだとはどう考えても思えなかったのである。
そして考え込んだ末、
その感情、つまり怒りの矛先はまぎれもない自分にあるということで、
この時僕はこれ以上ない程の、ある意味爽快感にも似た感情を得たのである。
僕は決して起伏が激しいタイプの人間ではないし、唯一そこは自負できる点だとも思っている。
だから大概のことは寛容に対応できる。
だからこそがその僕が怒りによってここまで自分の行動を左右できるとは毛ほども思わなかったのでし、考えたこともなかった。
このことから考えられることは
きっと自分はプライドの高い人間だなのだということ。
だから、自分への怒りでここまで原動力が湧いてくるのだろう。
人からよく見られたい。
自分をよく見せたい。
この感情はいつになっても消えることはないし、
おそらく今後自分に何か大きな出来事がないと到底変わることはないだろう。
今までもあえてプライドがない人間を演じることによって
それを悟られないようにしてきた。
でも今思い返せばそれもプライドが高いからゆえの行動だったのかもしれない。
だが、自分の本質を理解することができた今となってはそれを利用することができるし、
自分の感情をコントロールできるようになった。
そして、
同時にそれは、他人を理解し、他人の構造を理解することによって、他人を意のままにコントロールすることに繋げられるということにも気づいた瞬間でもあった。
僕はこれ以上ないくらいの高揚感を覚えたのである。