みなさん突然ですが、『無』について考えたことありますか??
『無=(何もない)』がある状態ってどんな感じなんでしょうか??
言葉的には違和感がありますが、無の存在の証明について考えてみました。
抽象思考力、俯瞰力を鍛える
まずそもそもなんのためにそんなことを考えるのか??
それは思考力を鍛えるためです。
普段は何も思わないようなことに対して、あえて疑問を持ち考えて見る
何気ない、命題と向き合って見ることで思考は深まっていくのです。
そして思考力を鍛える方法は
「考えること」
これ以上でもこれ以下でもないです。
無(=何もない)の存在証明
「無の境地に達する」などとよく言われますが、
無(=何もない)の世界はあるのか?
まずはそこを考えてみましょう。
なぜ無(=何もない)が「ある」と言えるのか?
それを言葉で説明してください。
- 本当は何もないのだけれど、存在を否定する「仮説」のようなもの。
- 「ある」という言葉では表せないもの、感じることしかできないもの。
- 「何かがある」のであれば、その否定(=対立項)の「何もない」もあるはずなので、あると言えるもの。
- 時間軸で考えれば、何かがある以前に、最初は何もないはずなので、あると言えるもの。
・・・・他にも色々な説明の仕方ができると思います。
しかし、上記の説明は
すべて「無(=何もない)の存在証明」にはなり得ません。
なぜなら、仮説のようなもの、言葉では表せないもの、
感じることしかできないもの、○○なのであると言えるものが、
やはり「ある」と自ら言ってしまっているからです。
(「ある」ということは、無(=何もない)を自ら否定することになります)
そう、「無(=何もない)」が
「ある」と言っている時点で、
すでに「無(=何もない)」ではありません。
「無(=何もない)」が存在するのかについての意見
私の周りにもこれと同じ問いかけをし、意見を聞いてみたり、
ネット上で気になった意見を乗せてみます。
『無の存在証明』についての私の考えですが、
無は存在しないものであり、証明する事はできないと思います。
そもそも存在している時点で、それは無ではなく有であるからです。
存在することでしか証明できないこの世界で、無を証明することは不可能かと思います。
非常にシンプルな意見ですね。
「無」はAでもBでもなく、
もちろんCでもDでもなくF,G…Zでもない物。
しかも「あ」でも「い」でもなく、A’でもB’でもない。
「無」は言葉の外側にありながら、
人の知覚によってどんどん侵食されて、「ある」が広がっていく感覚があります。もし、全く新しい概念の言葉が出てきたとしたら、
それまでは人が知覚できなかった「無」の部分が
それまでは「あった」と、後付けで証明できると思います。「無」の存在証明は常に後付けでしかできないもので、
無の存在は「ない」としか言えないと考えます。「赤ちゃん(新しい概念)が生まれる前に存在していたか?」
という問いには「ない」というしかないのと同じだと思います。
「無(=何もない)」のそもそもの定義自体、抽象度のレベルが人それぞれ違っていて、
それが様々な意見として表れていましたね。
仮説を立てて考える
いろいろな意見がありましたが僕が考えたのは
「無(=何も無い)」が「無い(存在しない)」と仮定します。
そうすると、この世の中に、
「無(=何も無い)」は存在しない(1つも無い)ことになリます。
「無」は「1つも無い」
これが、すでに言葉として「矛盾」していますね。
なぜなら、「1つも無い」ということは、
「無(=何も無い)」そのものだから。
つまり、
「無(=何も無い)」がこの世に「無い(存在しない)」
と定義してしまった瞬間、
「無(=何も無い)」が発見できてしまうということ。
つまり、論理的に矛盾した帰結が導かれる。
よって、「無(=何も無い)」が「無い(存在しない)」
というスタート時点の定義は、明らかに「間違った」ものになる。
言い換えれば
「無(=何も無い)」は「最低でも1つ以上は存在する」
ということに行き着くのでないかと思います(※あくまでも個人的な見解です)
まとめ
こう考えるならば、やはりこの質問に「言葉」=私たちがその構造の範囲内で考えうるあらゆる論理を使って答えることは不可能であり、何人かの意見にもあったように、
「証明はナンセンス」
「問い自体に意味がない」
「命題が間違っている」
といった回答にならざるを得ないとも言えます。
=すなわち「語り得ぬもの」に該当する命題ということです。
しかし、そういった答えのない問いにあえて向き合うことで、
私たちの思考力は深まっていくのです。