言葉の二項対立
冒頭でも話したように、1つの単語でも表現の仕方によって、意味を全く逆にすることができます。
例えば、『詐欺師』という単語
本来であれば、
『騙す お金に貪欲 犯罪をなんとも思っていない』などと悪い印象が一般的でしょう。
しかし
上記の印象を意味は変えずに言い換えてみたらいかがでしょうか?
騙す → 口がうまい
お金に貪欲 → 稼ぐことにコミットしている
犯罪をなんとも思っていない → 感情を殺してセールスができる
どうでしょうか??
意味はほとんど変わっていませんが、
犯罪者が一変、仕事ができる営業マンみたな印象になっていませんか??
そうなんです。
ニーチェ的な哲学観点から考えると、
この世に事実というものは無く、有るのは人の解釈のみです。
つまり、言葉の言い回しを変えただけで、聴き手の解釈を変えてしまったのです。
哲学的観点で言葉を考える
哲学的な観点で言葉をみてると、
普段は気づくことのない気づきを得ることができます。
例えば『疑う』という言葉について考えてみましょうか。
なぜ?の部分ですね。
そして、言葉の世界に生きる僕たちは、すべてを「疑うこと」ができます。
すべてを信じないということですよね?
何も信じられないなんて、人として寂しくないですか?
ここで、すべてを疑う、とは
どういうことを意味するのか?
すべてを疑うのであれば、
「疑うこと」自体も疑わなければならない、ということになります。
ですが考えてみてください。
疑うこと自体も疑うとしたら、
この世界に疑えるものは何もなくなります。
そうすなわち、
すべてを疑う、ということは、
すべてを信じる、と言ったのと何も変わらないことになるのです。
「すべてを疑えるならば、すべてを信じられる。」
ということになるんですよ。
信じることの大切さ
哲学的な観点から考えることによって
本当の意味で「信じる」ことの大切さを理解することができます。
例えば、「愛」
愛という概念をただただ盲信するのではなく、
まずはとことん疑うことで、心底信じることができる境地に至る。
哲学的世界観を知ったからこそ、
より深いレベルで愛というものを信じきれて、愛に身を任せることができるのです。
私たち人間はとても弱く、
何かを「信じること」に支えられて生きています。
すべてを「疑うこと」の向こう側に、
すべてを「信じること」があると言うことを覚えておきましょう。
そしてお気づきでしょうか??
この考え方自体の根底には言葉による解釈の違いが関わってきているんですよ。